私たちはアジアの女性と子どもの権利を守るため
   主に教育支援を中心に活動しているグループです。

ごあいさつ

「アジアの女性と子どもネットワーク」は1996年に設立しました。創立20周年を迎えることができましたことは、皆様方の深いご理解と温かなご支援、そしてご協力の賜物と心から感謝申し上げます。

この20年間で世界は大きく変わりました。20年前に活動を始めた頃は、多くの山岳地域の村では、家に電気が通っていませんでした。今は、伝統的な暮らしをしている村も少なくなり、各家にもテレビが当たり前のようにあります。

20年前には想像していなかったほど、日本でもタイでもインターネットが普及し、スマートフォンでいつでもインターネットにアクセスできるようになりました。 様々な情報が溢れ、良くも悪くも非常に簡単にインターネットでコミュニケーションがとれるようになりました。

現在は、経済発展で豊かになったタイを目指し、多くの人が、近隣の国々から国境を越えて移住してきています。しかし、これらの人々は、国籍を持っていないために職に就くこともできず、それまでよりも、もっと苦しい暮らしに陥るようなことも起きています。こうした社会の変化に伴い、私たちの活動内容も少しずつ変化してきました。

しかし、20年間、一貫して大切にしてきたのは、社会的に抑圧された立場の女性・子どもと共に手を携えて歩くということです。20年という節目にこれまでの活動を振り返ってみると、少しずつ、継続的に活動を続けてきたことが、実を結んできたことに、改めて気付かされました。

5人で始めた活動も、今は多くの皆様に支えられるようになりました。
今後も、私たちは、これまで大切にしてきた人と人とのつながりを広げながら、心を込めて活動を重ねていきたいと思います。
引き続き、皆様の暖かいご協力をよろしくお願い申し上げます。

                        

アジアの女性と子どもネットワーク  
     代表 マリ・クリスティーヌ

1996年
アジアの女性と子どもネットワーク設立

長い交渉の後入学を許可され、寮での夕食を食べる子どもたち 5月、タイ北部チェンマイ県の山岳地帯の村を訪問した折に、50km以上離れた村から33人の子どもを含む山岳民族の親子が前日から座り込み、就学の機会を求めているところに遭遇した。タイ北部に住む山岳民族は、それぞれの民族の言語を使い、独自の文化、習慣を守りながら自然と共存しながら暮らしてきていたが、近代化の波や貨幣経済が押し寄せ、タイ語の読み書きができないと仕事に就くことも難しい状況であった。長い交渉の末、子どもたちは入学を許可されたが、初めて親と離れた子どもは泣き続け、夕食の時間にもご飯が食べられない状態であった。 子どもは生まれるところを選ぶことはできない。子どもたちが学校に行けないような状況、小さな子が親と離れなければ教育を受けられないような現状を改善したい、アジアの中でも弱い立場にある女性や子どもの命と権利を守りたいと、5人の母親が中心となり「アジアの女性と子どもネットワーク」を設立し活動を開始した。代表にマリ・クリスティーヌが就任。 帰国後、「僕たちも学校に行きたい」と題した配布物を作成、募金を開始するとともに、リサイクルバザーなどで資金作りの活動を始めた。

1997年

7月2日タイバーツを変動相場制に移行したことにより、タイ国内で為替レートや株価の大暴落が起こり、これがASEAN他、中国などにも波及しアジア通貨危機が始まった。
この経済状況の中、山岳民族などの日雇い労働者が大量に解雇され、日々の暮らしに困窮を極める村の中に人身売買が横行するようになった。

「エイズを止めて」
「子どもたちを売らないで」プロジェクト

人身売買の被害防止と、HIV/AIDSのまん延を食い止めることを目的に、チェンライ県の山の中を4輪駆動の車で走る啓発ビデオキャラバンへの教材を提供。放映されるVTRの中で、売られた子どもが都会でどのような状況に陥るかを7つの民族の言語で伝えたほか、パネルやテキストを使用したワークショップを開催した。 電気の通っていない山の中であるため、車に発電機とパラボラアンテナを積み、テレビドラマやアニメの放映で村の人々を集め、コマーシャルのように啓発VTRを放映した。

犯罪です!子ども買春


子ども買春禁止法」の成立を求めてロビー活動や広報活動に積極的に取り組んみ、公共施設や空港などにポスター掲示を実現した。成田空港では、日本ユニセフ協会が作成した映像が放映され、その中でマリ代表が「自分の子どもにされたくないことを他の国の子どもにしないでください」と呼びかけた。

1998年
第1回学校建設

チェンマイ県サムン郡のバーンメーランカムスクールに校舎2棟8教室を建設した。半径8kmくらいの近隣の子どもたちが通う学校で、遠方の子どもは学校に寝泊まりして勉強をしている。新校舎建設により基準を満たすことができたので、タイ政府から中学校として認可を受けることができた。これまでこの村の近辺には小学校か、寺子屋のような学校しかなく、ほとんどの子どもは小学校を卒業すると家の仕事や畑を手伝うなどして働いていたが、中学校ができたことで、進学を諦めていた子どもたちも再度学校に通い始め、13歳~17歳までの13人が新中学1年生となった。
㈱NTTドコモ助成事業 生徒数251名 

※当時タイの義務教育は小学校6年生まで。1999年に新国家教育法が改正され、義務教育が延長になり中学3年生までとなった。

デスク&ライスプロジェクト 

机と椅子には送り主の名前を 記して大切に使っている
バーンメーランカムスクールの校舎が完成したが、机と椅子が揃わず、子どもたちはコンクリートむき出しの床に直接座って勉強していた。この状況を改善するためにプロジェクトを開始。一口1万円の寄付を募り、2人で使用する木製の机1台と椅子2脚を作成。為替レートの関係で出た余剰金は寮生の食事のための米代に充当し、2年計画で100組の机と椅子を贈ることを目標にした。この年は50組の机と椅子を贈ることができた。

1999年
第2回学校建設 

女子寮と男子寮
チェンマイ県メーワン地区メーウィンサマキスクールに校舎1棟2教室、女子寮、男子寮各1棟を建設した。この学校は教室数不足のため入学希望者を受け入れられない状況で、遠方から通う生徒の寮も、狭いところにすし詰めであったが改善できた。教室数増加で、職業訓練の授業も可能となり、洋裁や溶接などを学び子どもたちの将来の職業の選択肢を広げることができた。 ㈱NTTドコモ助成事業 生徒数314名

子ども買春・子どもポルノをなくそう

子ども買春・子どもポルノの根絶のため、「児童買春・児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護に関する法律」の成立を求めてロビー活動を活発化した。シンポジウムや報告会を開催して広報活動に力を入れるとともに、前年度継続審議となってしまった法律の成立のため、多くの方々にご協力をいただき、衆参両議院議員に早期審議を開始する依頼の葉書・FAXを送る活動も展開した。 この法律は5月18日の衆議院本会議で全会一致で可決、成立した。

キッチンプロジェクト

千葉県立我孫子高校生徒有志のご寄付で、バーンメーランカムスクールの給食室と台所を整備した。これまで暗い土間の七輪で煮炊きし、屋外で食事していたが、雨の日も濡れず、とても衛生的で全員そろって気持ちよく食事ができるようになった。

2000年
第3回学校建設


ウドンタニ県のパンパーシンスクールに2階建校舎1棟を建設。2階部分に4教室を作り、1階部分は多目的ホールとして使用する。
この学校はウドンタニ県や近県の、親を亡くしたり、貧困のために教育を受けることが難しくなった子どもたちを受け入れている学校で、卒業後にすぐ働けるように職業訓練に力を入れている。生徒数275名のうち82名が孤児で寮で生活をしている。 ㈱NTTドコモ助成事業

多目的教室建設


バーンメーランカムスクールの子どもたちが一堂に集まって活動ができるように
多目的教室「ブーゲンビリア館」を建設。子どもたちの授業や行事のみならず、
村人の健康診断や集会にも活用される場となった。無事に定年退職を迎えた
感謝の気持ちとして横浜市の I 様ご夫妻からのご寄付で建設された。

ウィメン to ウィメンプロジェクト


山岳民族を取り巻く状況を良くしていくためには、民族出身のリーダーを育成することが重要と考え、チェンマイ大学大学院に進学し、勉強と共にNGOで活躍している山岳民族の女性に奨学金を送る活動を開始した。チェンマイ大学のビラダ・サムソワディ教授の協力で、初年度3人の女性への奨学金を届けた。
国連ミレニアムサミットで2015年までに達成すべき目標として「ミレニアム開発目標」が採択される。(9月)

2001年
第4回学校建設


ウドンタニ県グッドジャップ地区のニコムホエルアンスクールに2階建1棟8教室の校舎を建設した。この学校には障がいを持つ子ども30人が通っている。
旧校舎はシロアリの被害が著しく、障がいを持った子どもたちにとって危険なので安全対策が急務であった。㈱NTTドコモ助成事業 生徒数290名

第2回子どもの商業的性的搾取に反対する世界会議

写真提供:神奈川新聞 12月17日~21日、横浜で「第2回子どもの商業的性的搾取に反対する世界会議」(横浜会議)が開催され、136ヶ国から90人の子どもを含む3,048人の参加者が話し合いを行った。私たちは日本における子ども買春である「援助交際」をテーマとしてワークショップを開催した。横浜市内の中学校、高校を対象にした「性」に関する意識調査を基に約250名の参加者と共にこの問題について活発な意見を交換した。

※この会議は、国際会議で初めて世界中から90人の子どもが参加、当事者として子どもの権利の重要性について話し合った。

加藤シヅヱ賞受賞 

女性運動のパイオニア加藤シヅヱさんの功績を記念する「第5回加藤シヅヱ賞」を受賞した。授賞式で加藤さんから「女たちの日常感覚を活かし、様々な工夫を凝らしながら、市民による国際協力を推進している姿勢に共感を覚えます」との言葉を受けた。

かながわボランタリー活動奨励賞

神奈川県が地域社会に貢献度の高い活動に自主的に取り組んでいる団体を表彰し、その活動の継続・発展を奨励する「第一回かながわボランタリー活動奨励賞」を受賞した。

10月、タクシン政権により「30バーツ医療」が導入され 人口の7割にあたる農民、貧困層に対する医療保障が開始した。

2002年
第5回学校建設


ウドンタニ県トゥンフォン地区のバーンナーチュンサンスクールに2階建8教室の校舎を建設した。タイ政府の政策で小規模の学校が統廃合されたため、地域の中心であるこの学校の生徒が急増した。この状況に対応するために校舎を建設した。校舎建設後、入学を希望する生徒数がさらに増加した。 
㈱NTTドコモ助成事業 生徒数556名

ウォータータンクプロジェクト

ウドンタニ県ペン郡のバーン・タオハイ・スクールに飲料水タンクを贈呈。ペン郡はウドンタニ県の中でも最も乾燥している地域である。子どもたちの飲料水は雨水に頼っている。雨水貯蔵タンクは老朽化し、全員の飲み水が不足したため、タンクを建設。この事業は逗子の女性グループ「コスモスの会」からのご寄付を受けて実施した。

キルトのプレゼント

5月31日~6月30日に横浜で開催されたFIFAワールドカップを歓迎するために横浜市役所はじめ市内各所に展示されたウェルカムキルトをAIDS孤児に送ってほしいと依頼があり、タイのAIDS孤児施設「ハッピーホーム」に届けた。
子どもたちは、大好きなサッカーのキルトに大喜びだった。
(男女共同参画センター横浜協力事業)

2003年
第6回学校建設


ウドンタニ県ペン郡のバーンナープースクールに2階建8教室の校舎を建設した。この学校は地域で唯一中学校を併設した学校である。1999年の新国家教育法改正により義務教育が中学校まで延長されて9年間になったため、中学校への進学を希望する生徒が急増し、教室数が不足していた。新校舎の建設により希望者全員が入学できるようになった。 ㈱NTTドコモ助成事業 生徒数666名

AIDS孤児里親基金


タイ国内のAIDS患者及びHIV感染者の累計はこの年の6月に30万人を超え、親をAIDSで亡くしたり、親のHIV感染により生活を維持することができなくなってしまったことで影響を受ける子どもたちが増加した。
子どもたちを支援するために、教育費と医療費、生活費の支援をする「AIDS孤児里親基金」を開始した。支援対象は「愛の家」と「希望の家」の子どもたち。

職業訓練室


福岡県のH様ご夫妻のご寄付で、バーンメーランカムスクールに子どもたちが溶接、理髪等の職業訓練を受けることができる教室を建設。溶接の教室では村の農機具の修理などを引き受け、理髪室では上級生が下級生の理髪をするなど、実際に暮らしに役立っている

みんなの気になる性のこと

横浜市内の中学生・高校生2,238人を対象に実施した意識調査の結果をブックレットにまとめて発表。どんな性教育を受けているか、性の情報をどこから得ているか、援助交際に関してどう考えるか等の質問から子どもたちの現状を浮き彫りにした。

2004年
第7回学校建設

落成式に集まった子どもたち
チェンマイ県チェンダオ郡のバーンフェイジャカーンスクールに1階建て1棟8教室の校舎建設。教室不足が深刻であったが、新校舎建設で中学校が開設された。この地域は国境に近く、文字の読めない大人も多い。これまでは初等教育も完全ではなかったが、校舎建設により、全員中等教育を受けられるようになった。団体設立当時からのコーディネーターで、2003年9月に逝去されたジャナロン氏を記念して、この学校をジャナロン・メキンタランクラ メモリアル校舎と名付けた。 ㈱NTTドコモ助成事業 生徒数377名

養豚プロジェクト


国からの給食援助が減らされ、給食の米を持参することが子どもたちに義務付けられた。バーンメーランカムスクールでは米を買えない家庭が多いため、親の経済的負担と子どもの精神的負担の軽減のため学校で養豚事業を開始。

ハッピーコンテナ

福岡県のH様ご夫妻のご寄付で、バーンメーランカムスクールに子どもたちが溶接、理髪等の職業訓練を受けることができる教室を建設。溶接の教室では村の農機具の修理などを引き受け、理髪室では上級生が下級生の理髪をするなど、実際に暮らしに役立っている。

フレンドシップキルト


千葉県のキルト制作グループ「ふーぷ」他、全国のABCキルト関連の団体より心をこめた手作りキルトのご寄付を受け、スタディツアーの折にタイのAIDS関連の団体に届ける事業を開始した。

 

12月26日、スマトラ沖地震/インド洋津波発災。マグニチュード9.1 津波の被害はアフリカにも及び22,000人が死亡。

2005年
第8回学校建設


スマトラ沖地震/インド洋津波の被災の島、タイ南部ラノーン県ムアン郡シンハイ島のバーンコシンハイスクールに2階建て4教室の校舎を建設した。津波で家や親を失った子どもたちは災害後、大きな不安を抱えていたが、安心できる学びと遊びの場ができたことにより、心の回復にもタプラムディケアセンター 繋がる事業となった。生徒数314名 このほか、津波で外壁や園庭の遊具が流されてしまったタプラムデイケアセンターの修繕事業も実施。 両事業とも㈱NTTドコモ助成事業

井戸掘削事業


名古屋大須ロータリークラブの支援で、チェンマイ県のAIDS孤児施設「さんたの家」の井戸掘削事業を実施した。子どもたちのための飲料水にするのみならず、近隣の家庭に販売することができるようになった。

多目的教室・図書館


名古屋大須ロータリークラブの支援でチェンマイ県オムゴイ郡のバーンパープーンスクールの多目的教室とチェンマイ県メーオー郡のワットフェイサイスクールの図書館を建設。

パソコン寄贈

㈱NTTドコモから寄付されたパソコンを、チェンマイ県のバーンフェイジャーカーンスクールに寄贈。子どもたちはパソコン習得で職業の選択肢が広がった。特産物の販売などにも活用し、村の発展にも寄与したいと熱心に学んでいる。

2006年
第9回学校建設


クラビ県アオナーン村のバーンアオナンスクールに2階建て4教室の校舎を建設。インド洋津波の被災地であるが、この学校は直接被害を受けていない。しかし、災害の復興事業や、観光地の拡大事業などのために労働者の流入が著しく、急激な人口増加のために教室が足りなくなった。一つの教室を仕切って2教室として使用するほか、野外でも授業を実施しなけらばならないため、雨季には勉強ができない日が続くというような状況であった。 ㈱NTTドコモ助成事業 生徒数162名

図書館建設


東京の女性グループCWAJからのご寄付で、ラノーン県カパー郡のチャン・パッタナースクールに図書館を建設した。これまで図書室として使用していた教室は、日あたりが悪く、子どもたちの視力の低下が目立つようになったために、日当たりの良い場所に図書館を建設した。

ハッピーコンテナPARTⅡ


富山県の衣料問屋㈱島屋から、学校の統廃合や制服のモデルチェンジ等で倉庫に眠っていた、色々なサイズのジャージの体操服5,400枚と輸送費のご寄付を受け、タイ北部、東北部の学校建設事業を行った学校、AIDS孤児院、ストリートチルドレン施設などに届けた。


2007年
第10回学校建設

新しい教室で張り切って勉強
ウボンラチャターニ県コンチアム郡のバーンクムスクールに2階建て4教室を建設。1階部分は多目的ホールとして活用。これまでの校舎は築43年で老朽化が著しかった。ラオスとの国境に近いためラオスからの出稼ぎの人が増加し、生徒が増え教室不足となった。周辺で唯一の中学校併設校であるが教室不足のため、子どもたちは近くの寺院を借りるなどして勉強をしていた。新校舎完成で全員が中等教育を受けられるようになった。 ㈱NTTドコモ助成事業 生徒数224名  この事業を以て予定通り10校の学校が建設されたので、㈱NTTドコモ助成事業は終了となった。

AIDS孤児支援
チャリティラン

10月6日・7日に日比谷公園で開催された“グローバルフェスタJAPAN2007”のチャリティランの支援先に私たちのAIDS孤児支援事業が選出された。フェスタ当日は、入り口近くの特設ブースで活動アピールを行った。
 

AIDS孤児絵画展


富山県の衣料問屋㈱島屋から、学校の統廃合や制服のモデルチェンジ等で倉庫に眠っていた、色々なサイズのジャージの体操服5,400枚と輸送費のご寄付を受け、タイ北部、東北部の学校建設事業を行った学校、AIDS孤児院、ストリートチルドレン施設などに届けた。

電化製品の寄付


AIDS孤児絵画展に来場されたO様ご夫妻から、「愛の家」「希望の家」に冷蔵庫、扇風機等の電化製品のご寄付を受け、届けた。

2008年
おなかいっぱいプロジェクト


伝統的な暮らしをしてきた山岳民族の村に貨幣経済が押し寄せ、親たちが出稼ぎや日雇い労働などに出かけることが増えた。貧困、親の多忙、栄養に関する知識不足などが原因で、成長に必要な栄養が摂れない子どもが多くみられるようになり、身長、体重共に平均をかなり下回り、髪の毛の色が脱色するなどの状況に陥る子どももいた。子どもたちがおなかいっぱい食べて元気に成長できるようにと事業を開始。
チェンライ県メエヤオ地区のチャイルドセンターの子どもたちを対象に栄養たっぷりの給食を提供。
書き損じはがき2枚で3食の給食を届けることができるプロジェクト。

図書館建設

プロ野球楽天ゴールデンイーグルズの岩隈投手ご夫妻のご寄付で、スマトラ沖地震被災地のラノーン県のバーンコシンハイスクールに図書館を建設した。
津波から3年を経たが、津波の恐怖が子どもたちの心に大きな影響を残していた。娯楽の少ない島の暮らしの中で、子どもたちは夢中で本を読み、不安の軽減に役立った。
 

CSECジャパンフォーラム



12月7日横浜市教育会館で「CSECジャパンフォーラム~子どもの人身売買・性的搾取をなくしていくために~」を、この課題に関して活動している団体と共に開催した。

「第三回子どもの商業的性的搾取に反対する世界会議」がブラジル・リオデジャネイロで開催される(11月25日~28日)


2009年
横浜開港150周年記念事業Y150



長い鎖国から開国・開港した安政6年(1859年)から150年に当たり、「未来へ出港」をテーマに開催された「開国博Y150」のヒルサイド会場で行われた市民参加プロジェクトに出展した。
9月15日~27日の期間中、ブースでは、横浜開国博のキャラクターたねまるが旅した北タイの状況を伝える写真展示や、すごろく、民族衣装の試着体験、HIV/AIDS予防啓発のプラバン作り、北タイの子どもたちと会場をインターネットで繋ぎ、タイの子どもたちと来場者が会話や歌の交換などができる場を作るなど、様々なワークショップを開催し、多くの市民に北タイの現状と国際協力の重要性を伝えた。
また、会場内でのステージでは「子どもの人身売買」の現状を伝える朗読劇の上演、映画上映、講演会などを開催した。ブースは連日満員となり、2週間の期間中の来場者は延べ4,000人を超えた。
レッドリボンのプラバン作り北タイの村の様子の写真を見る子どもたち インターネットでタイの子どもたちと会話

2010年
幼稚園建設事業

新しい教室で張り切って勉強
ウボンラチャタニ県シリントーン郡チョンメリックにある、バーンヒンスンスクールに幼稚園を建設。
この村は、ラオスからの移民が多く、土地を持てず、タイ語の読み書きができない人が多数暮らしている。日雇い労働や農作業の間に親が安心できるように、子どもを預かるデイケアセンターとしても活用する目的で建設した。 JICA助成事業園舎は平日は幼稚園として、土日は地域住民に対する保健衛生・栄養指導なども実施。デング熱や寄生虫などの感染症対策やヨード不足の改善等の栄養指導で村人の生活環境改善に活用されている。
 

タイの性教育ワークキャンプ


通信網の発達は、伝統的な暮らしを続けている村に、インターネットを通じて日本のアダルトDVDが流入するというような状況を生み出した。望まない妊娠や性感染症の子どもが増えるようなことも起こり始めた。子どもたちの環境を少しでも良い方向に持って行くためには「性教育」をしっかり行うことが必要であるため、「アジアの女性と子どもネットワーク」のスタッフをタイに派遣し「性教育ワークキャンプ」を実施した。自分の体の仕組みを理解し、自分で自分を守り、周りの友達にも正しい知識を伝達できるリーダーを養成することを目的に実施したワークキャンプには、チェンライ県の約30人の山岳民族の中学生が参加し、ピアリーダーとなり、仲間たちに伝えた。
 

2011年
東日本大震災復興支援事業

3月11日午後2時46分東日本大震災発災。震源地:宮城県牡鹿半島沖130km
マグニチュード:9・0(日本での観測史上最大)


新しい教室で張り切って勉強
「きらりんきっず」は避難所内では子育て中の母親たちを応援するために活動を再開。おむつ、衣類、ミルク、アレルギー対応食の提供、安心して授乳できる場所の提供など母と子を守るために様々な支援を実施。現在も被災後の人口減少の中で子育てを孤立させない活動を続けている。
 

北タイの青年集会所の建設

チェンライ県アジャ村に若者のグループ「デックランカオ」のメンバーが集い、音楽の演奏や話し合いが出来るための集会場を建設した。タイの山の村の子どもたちを取り巻く環境は厳しく、麻薬やアルコールの道に足を踏み外してしまう子どもも出ている。この集会所は音楽を通して子どもたちと交流を図りながら、様々な村の課題を話し合い、村を良くしていくために若者たちが自ら行動をしていく活動の起点として活用される
 

2012年
かいこプロジェクト(桑の育成)

桑を育て養蚕を行い、育てた繭を非繊維利用することを視野に入れた新しい養蚕事業を開始した。山岳民族やストリートチルドレンの自立を目的とする。
タイが近代化するとともに村にも貨幣経済が流入し、現金を得ることが必要となってきたが、山岳民族は国民証を持っていない、タイ語の読み書きができない等の理由から職に就くことが難しい。このような人たちのために、養蚕事業を開始した。
桑栽培や養蚕は、タイで昔から伝統的に行われているが、化学繊維の発展と共に、現在では衰退が始まっている。非繊維利用では、不揃いな繭でも活用できるため、子どもたちにも容易に実施できる。
初年度は開墾し、柵作り、苗を植えた。桑の苗は女王が主催する国立養蚕センターから貰い受けることができる。8月中旬に植えた15cm位の苗は、10月初めに子どもたちの背の高さを超えるほどに大きくなった。ストリートチルドレンは生育歴から、やる気や継続して物事を行うといった根気がない子どもが多い。 桑は成長が早いので、育つ様子を楽しみながら仕事を続け、自信を持ち、自分を大切にする事ができるようになった。
日本から赴き、子どもたちと苗の植栽 子どもたちは桑の世話が大好き!

2013年
かいこプロジェクト(養蚕)

桑が大きく成長したので、近隣の養蚕農家や国立養蚕センターからかいこの卵を譲り受け、養蚕を開始した。
桑の成長と同じく、かいこの成長も早く、日を追うごとに大きくなるので、子どもたちは興味津々で毎日桑の葉を刈り取りかいこの世話をした。
この事業を通して、命の営みの不思議を実感し、いつくしみ、根気よく物事に取り組むことの重要性を学び、エンパワメントに繋げることができたのは大きな成果だった。
楽しみながら飼育した後、出来上がった繭は切り繭にし、取り出したさなぎは重要なタンパク源として食用にした。繭はとても固く、切るのは大変な作業であるが、さなぎを食べたい一心で子どもたちは熱心に取り組んだ。
繭を販売して現金収入を得ることでストリートチルドレンの自立に繋がる。 この事業は福岡県の㈱ゼンシンからの支援を受けて実施している。
桑が大きくなったので養蚕を開始 養蚕小屋は廃材を使って手作り 切りまゆ作りは楽しい作業

2014年
トイライブラリープロジェクト

タイ・ラオスのおもちゃに接する機会が少ない子どもたちのために、保育園や学校施設などにおもちゃを贈る事業。㈶日本おもちゃ図書館財団の支援事業として開始した。
子どもはおもちゃで遊ぶことを通して、想像力や運動能力、知力、自己表現力を伸ばしていくことができる。自宅におもちゃを持っていない子どもたちも多いため、学校や幼稚園におもちゃがあることで子どもたちの就学率や出席率の向上にも効果がある。
おもちゃが届くと子どもたちは大歓声で、さっそく遊び始めた。大切に使う、取り合いをしない、使った後は必ず片づけるなど、自分たちで話し合い、決まりを作る積極性も育まれた。

子ども買春・子どもポルノ禁止法の改正

子どもポルノは製造段階で子どもの人権を大きく侵害しており、虐待に他ならない。被害に遭う子どもが低年齢化しているが、子どもポルノに関する法規制はなかなか進まない状況であった。私たちは法改正を求めて署名を集め、ロビー活動を続けていたが、この年の6月18日「子ども買春・子どもポルノ禁止法」の改正案が衆議院本会議で可決された。2004年以来10年ぶりの改正で、子どもポルノの単純所持が処罰の対象となった。しかし、漫画、アニメ、CGは「表現の自由を脅かす」ということの懸念から規制対象外となった。

※警察庁の発表によると2013年一年間で児童ポルノ禁止法違反で検挙された事件は1644件、被害に遭った子どもは646人といずれも過去最多で、この中には小学生以下の子ども92人も含まれる。

2015年
女子寮の床と給食の食器支援事業

チェンマイ県のバーンメーランカムスクールでは、学校の予算で男子寮の床は改修されてタイル張りの新しい床になったが、費用が足りなくて女子寮の床は改修できず、コンクリートがむき出しのままであった。
子どもたちは、毎日掃除をして清潔を心がけているが、もともと湿気の多い土地に建っているのでコンクリートの床はジメジメしている。山の冬は寒く、女子生徒の体が冷えることを心配した教師からの依頼で、女子寮の床の補修を実施した。女子寮は改修され、生徒たちは気持の良い床で暮らすことができることをとても喜んでいる。また、給食用の食器が壊れて、数が足りないために子どもたちが全員揃って給食を食べられず、上級生が毎回外で待っていなければならないような状況が続いていたため、給食用の食器も届けた。新しい食器に食欲も進み、子どもたちは自分お皿を丁寧に洗いながら大切に使用している。
この事業は国際協力やジェンダーについて勉強をしている横浜女学院の有志の方々からのご寄付で実施したので「Girls to Girlsプロジェクト」と名付けられた。
新しい食器を喜ぶ子どもたち 食器は自分たちで洗って大切に使用 新しくなったピカピカの床

2016年
図書館建設事業

子どもたちに読書の習慣ができ、本を通して多くの知識を得るとともに創造力や情操を育てることを目的とし、バーンメーランカムスクールに図書館を建設。
バーンメーランカムスクールは、校舎の改修に伴い、これまでの図書館が使用できなくなった。貧困家庭が多く、自由に本を買うことが出来ない環境であるうえ、寮生活をしている子どもは、毎日学校で過ごしているために、放課後図書館で本を読む時間を持つ事を望んでいる。建設にはできる限り村の人を雇用し、遠方に出稼ぎに行かなくても現金収入が得られるようにした。この事業は村の経済安定にも寄与するものとなった。この事業は伊丹市のTご夫妻からのご寄付で実施された。図書館の落成は2017年1月下旬を予定している。

ガールズサンタ

チェンライ県のアカ族の村の若者たちが村を良くしていくために結成した「デックランカオ」のメンバーが、近隣の学校の貧困家庭の子どもたちにクリスマスプレゼントを届け、楽しい時間を共有する。支援先のコックノーイスクールは学校周辺の村から通う子どもの他に、ミャンマーのアカ族の子どもも受け入れている。寮で暮らしているが、貧困家庭の子どもが多いため、文房具やタオル、歯ブラシ、石鹸など身の回りのものをそろえることもままならない状況である。
このクリスマスプロジェクトは「ガールズサンタ」として、横浜女学院の有志の方々が学校祭で山岳民族の手工芸品の販売をした売り上げで実施された。
横浜からタイに温かなプレゼントが届きます。楽しいクリスマス会になることを心から願っています。

タイの交流団体

愛の家

1994年にHIVに感染し、行き場のなくなってしまった女性や子ども、母子感染の子ども、HIV/AIDS孤児が生活する施設として設立。衛生管理や栄養の管理、薬の補給等でAIDSの発症を抑え、子どもたちが教育を受けられるようにするなど、安心して生活できるように活動している。開設当時は14名だった入所者が現在では約30名になっている。昼間はデイケアセンターとしてチェンマイ市内のスラムから約50名の子どもたちを預かり、先生が歌や踊りなどを教えている。

アーサーパッタナーデック財団


1992年からチェンマイ繁華街でストリートチルドレン救済のための活動を続けてきた「先生」と呼ばれる中心スタッフが、1997年に「The Volunteers Group for Development」を立ち上げた。このNGOは主にライフスキルトレーニング(生きていくために必要な力を養うトレーニング)やアートセラピー、麻薬・HIV/AIDS予防教育など、子どもたちの生活環境向上のための活動を続けている。

希望の家

AIDSや麻薬で親を失い、教育はおろか、生きるすべのない山岳民族の子どもたちが健全な成長発達をとげることを願って作られた養護の家。
20名以上の子どもたちが、家族に近い環境で共同生活をしている。

子どもの家

アーサーパッタナーデック財団の運営する、子どもの家。ストリートから救出された子どもたちが、共同生活をしながら心と体を回復させている。子どもの家では、AWCの「かいこプロジェクト」が実施されている。

ジャナロンさんありがとう

2003年9月20日、ジャナロン・メキンタランクラさんが急逝されました。ジャナロンさんはAWCの設立時からタイのコーディネーターを務めていただき、協力事業のほとんどを手掛けていただきました。
これまでのご功績を称え、改めて深く感謝申し上げます。

私たちがジャナロンさんと出会ったのは1996年のことでした。 ソーシャルワーカーとして、社会のひずみを無くし、困難を解決する事に尽力していらっしゃいました。学校建設などの教育支援を通じて、人権が尊重され、自己実現の出来る社会をめざし、活躍されました。
 「人間の尊厳」に敬意を払い、尊厳を保つことのできる世界をつくるために、寸暇を惜しんで働き続ける方でした。人類愛に満ち、国境という概念を持たず、人と人をつないでいく、その高潔な生き方を尊敬しています。ジャナロンさんとの出会いにより、AWCは魂を吹き込まれたのです。

現在はタイの山の奥まで道路が整備されてきましたが、ジャナロンさんが北部や東北部で活動していらっしゃった頃は、雨季になると四輪駆動車もバイクも通行できず、徒歩でなければ訪れることが出来ない村もたくさんありました。
そのような困難な状況でもジャナロンさんは、タイで850件以上の事業を実施されたそうです。その中の一つに、米銀行があります。米銀行とは、お米が不作で買わなければならなかった時に、大きな借財を背負わなくてもすむように、コミュニティの中で低利でお米を借りることが出来るシステムです。

貧しくて学校に行けない子どもたちには奨学金を提供し、学校がない地域には学校建設が実現するように日本の友人たちや慈善団体への資金集めにも奔走しました。

ジャナロンさんは、受け取った寄付金の1バーツたりとも行く先のわからない使い方をしませんでした。清廉、高潔、篤実…ジャナロンさんを思うとき、いつもこれらの言葉が次々と浮かびます。質素を信条とし、少しでも贅沢なことに出会うと、これだけのものがあったら、何人もの子どもを幸せにできると何度も話して下さいました。

ジャナロンさんの遺志を引き継ぎ、2004年にはジャナロン・メキンタランクラメモリアルスクール(バーンフェイジャカーンスクール)の落成式を迎えることが出来ました。
今も事業のこと、方向性などに迷ってしまった時には、ジャナロンさんならどのように考えるだろうと、頭の中で考えてしまいます。

 ジャナロンさんから教えていただいた多くのことを忘れずに、
これからも活動を続けていきます。ジャナロンさん、天国から見守っていてください。


タイからの手紙

2011年3月下旬にタイから一通の手紙が届きました。
チェンマイ県のバーンメーランカムスクールで、入学したばかりでまだタイ語がうまく話せない子どもや、寮の子どもたちの世話をしているパッカモン先生からです。
彼女はバーンメーランカムスクールの卒業生です。 1998年に私たちが校舎建設をした時に、中学1年生になった女性です。苦労して奨学金を受けながら大学を卒業し、村のためになりたいと学校に戻ってきました。
彼女は「日本の人々のおかげで中学校に行けた。その後の人生が大きく変わったのは日本のおかげである」と高校、大学で日本語を学び、今はバーンメーランカムスクールの子どもたちに日本語を教えています。
この手紙は、東日本大震災のニュースを聞いて、私たちを案じての手紙です。


中学生の頃のパッカモン先生(右から2番目)